施設紹介
立山信仰の世界
立山信仰の世界
第2展示室では、主題および展示室名を「立山信仰の世界」とし、
立山信仰の歴史を中心にして展示しました。
これは、立山の自然と人間とのかかわりを追求する上での、人文系展示の主題でもあります。
立山は古より、神の住む山として崇められていました。奈良時代、越中守として赴任した大伴宿祢家持は、立山の神々しさを歌に詠んでいます。
立山は、万葉の仮名で「多知夜麻」(タチヤマ)と表記されますが、その語源は太刀(タチ)や立錐する形状から名付けられたとも、顕ち山、つまり神の顕現する山の意ともいわれています。そこには、素朴な山岳信仰が垣間見え、やがて神の山立山は、仏教の伝来と広がりにより平安時代には仏の山として深く信仰され、地獄の山、さらには修験の山として、しだいに全国の修行者や都人の心をとらえるようになりました。
立山が仏教の山として開かれたのは、鎌倉時代初期までに成立した『伊呂波字類抄』に「越中守佐伯有若宿祢」を開山としていること、また、905(延喜五)年「佐伯院附属状」(随心院文書)に「越中守佐伯宿祢有若」の自署の存することから、遅くとも十世紀初めまでと考えられています。さらに九世紀末に没した延暦寺の高僧康済律師が、「越中立山」を建立したことは、立山が天台宗の拠点として位置づけられていたことを物語っています。
中世に入ると、修験がしだいに盛んになり、立山でも山中の窟などから、鎌倉時代から阿弥陀如来御正体、懸仏、鏡などが多く発見され、修験者が修行に励んだ様子がうかがわれます。
立山が全国に広く知れ渡るようになったのは、『今昔物語集』に立山地獄の説話が紹介されてからです。末法思想の流行した平安中期以降、死後の地獄の苦しみを説く思想が広まる中で、立山山中に地獄あり、人が死ぬと魂がそこに行くという古くからの信仰が、仏教思想と結びついて山中他界観が生まれました。平安末期には、地獄谷を中心に剱岳や火口湖のみくりが池などの景観が地獄に見立てられ、都に最も近い地獄として恐れられるとともに、注目を集めるようになっていきました。また、仏教説話などから、立山には諸国を徘徊する修行僧や浄土教の布教者の存在が知られ、まさに霊場修行者としての展開を見せていたのでしょう。
江戸期、芦峅寺うば堂で行われた最も重要な儀式は、秋の彼岸の中日に行われた布橋灌頂会です。女性の救済をはかるものとして喧伝され、各地から多くの参詣者で賑わいを見せました。
この儀式の様子は、『布橋灌頂会勧進記』に詳しく、まず閻魔堂に入って閻魔王らの審判を受け、経帷子をまとい目隠しをして布橋を渡り、うば堂に入ります。そして勤行ののち、唐戸が開かれ遥かに立山を仰ぎ、往生を確信しました。このうば堂には、うば尊が安置されていましたが、主三尊は万物の母で高天原から降臨したと言います。やがて大日如来に習合され、両脇66体のうば尊像とともに立山の自然的、土着的な信仰と結びついていきました。
江戸時代、立山は地獄・極楽の世界をこの世で体験できる山として全国的な信仰を集め、最盛期には、ひと夏6000人もの人々が登拝したといいます。立山に登拝する人々は、富山や滑川から立山道を経て、まずは登拝の拠点である岩峅寺・芦峅寺の宿坊に宿泊しました。翌朝早く、装束を整え、中語(ガイド)を頼み立山に向かいました。室堂までは中語の案内で登山しましたが、三山(雄山・浄土山・別山)巡りや地獄巡りは、宿坊の衆徒によって案内されたといいます。立山登拝の標準的な行程は、宿坊を起点に3泊2日あるいは4泊3日となっていました。
芦峅寺や岩峅寺の衆徒は、立山信仰を布教するため、諸国配札や出開帳の旅を行いました。芦峅寺にあった33宿坊の衆徒は、それぞれの坊ごとに檀那場を持ち、毎年、秋から翌春にかけての農閑期に全国の檀那場に赴き、立山信仰の布教をしてまわりました。その際に立山曼荼羅の絵解きを行うほか、血盆経や霊薬、立山登山案内図、経帷子、縁起の刷物などを持参しました。岩峅寺24坊の衆徒も、越中・加賀・能戸を中心とした近国で、檀那場をまわりましたが、その他に、加賀藩の許可のもとに一定の期間に限って、立山山中の諸末社や室堂の修理費用、あるいは山中登山道の草刈りなどの整備にかかる費用を勧進することを名目に、しばしば本尊や寺宝を披露する出開帳によって、立山登拝を呼びかけてまわりました。
1868(明治元)年、明治新政府によって神仏分離令が出されると、金沢藩(旧加賀藩)では、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。立山では仏堂・仏像が取り払われ、立山権現を廃止して、雄山神社と改称されました。そして岩峅寺は、雄山神社の遥拝所となり、官命に準じて神道色を打ち出し、芦峅寺では、同祈願殿としての大宮、若宮社は残すものの、布橋灌頂会の舞台となったうば堂は破却され、大幅に方向転換することを余儀なくされたのです。
こうした社会の動きの中で、立山における登山や社会生活にも大きな変化が生じるとともに、この後近代登山、観光登山として大きく脱却していくこととなります。