立山の文化と歴史

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1300年の立山信仰

地獄と浄土が隣り合わせで共存する山

立山は、富士山・白山と並んで「日本三霊山」のひとつに数えられ、
1300年前から続くといわれる山岳信仰の舞台のひとつでもあります。
山々には、昔のままの美しい風景が広がり、
古くから山と人々の生活とは深く結びついていました。

「神が住む山」としての立山

天平18年(746)越中守に任ぜられた大伴家持は、『万葉集』の編纂にも加わっており、その中には立山を詠んだ長歌「立山の賦」と短歌2首もあります。「立山(たちやま)にふり置ける雪を常夏に見れども飽かず神からなし」と詠んだ家持は、立山の神々しさを「神が住む山」と表現しています。
古代、山里や平野で生活する人々は、立山を「恵みを与えてくれる山」と考え、山に棲む動物も植生する植物も、田畑を潤す水や生活に必要な水も、山に住む神が与えてくれていると信じていました。また、死者の魂が集まる「あの世」とも考え、立ち入ってはいけない山を遠方から拝む風習(遙拝)が生まれました。

立山の自然景観と結びつく立山信仰

立山信仰の成立の背景には、立山特異の自然景観がありました。その中でも特に、弥陀ヶ原火山の活動によってできた地獄谷は、火山ガスを放出し、卵の腐ったような臭いが立ち込め、草木も生えない荒涼とした場所であり、寂しくて恐ろしい、この地獄谷の光景を「地獄」に見立てたのです。平安時代成立の『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』には、「立山地獄」に堕ちて苦しむ女性の話が紹介されており、『今昔物語集』には「日本国の人は、罪をつくりて、多くがこの立山の地獄に堕ちる」とも記されています。それに対して、浄土山や室堂平に高山植物が咲き誇る様子から、立山には「浄土」もあるとされました。

立山信仰と立山曼荼羅

江戸時代には全国へ広がっていく

当時の立山登拝は3泊2日や4泊3日とされ、麓の芦峅寺や岩峅寺には多くの宿坊がありました。
江戸時代になると芦峅寺の衆徒たちは、立山信仰の世界観が凝縮された『立山曼荼羅』をもって、全国に立山信仰を広げていきました。