立山の文化と歴史
立山曼荼羅 絵解き解説
14分でわかるYouTube解説動画
立山曼荼羅には、5つの要素が描かれていると言われています。立山開山伝説、立山の地獄、立山の浄土、禅定登拝道、布橋灌頂会の5つです。立山曼荼羅の内容について、絵解きをするように立山博物館の学芸員がわかりやすく解説します。
立山信仰のはじまり
立山開山伝説
大宝元年(701)、越中の国司 佐伯有若の嫡男で十六歳になる有頼は、父が飼っていた白鷹をこっそりと持ち出し、家来を従えて鷹狩りに出かけます。ところが、獲物に向かうはずの白鷹は天高く舞い上がり、飛び去ってしまいました。これは大変と有頼は、あわてて白鷹の後を追いかけていきます。岩峅寺の辺りで岩の上にとまった白鷹を呼ぶと、自分の方へ飛んできて、まさに腕にとまらんとしたその刹那、茂みから大きな熊が現れます。驚いた白鷹はまたもや逃げ去り、怒った有頼は、熊に矢を放ちます。矢は熊の胸に命中しましたが白鷹と同じ方向に逃げ去ってしまいました。有頼は熊の血をたどりながら白鷹と熊を追いかけて、いつしか木らしい木も生えていない平らなところ、今の室堂平へたどり着きました。
やがて玉殿の岩屋という洞窟の中に熊を追いつめた有頼が岩屋に近づくと、真っ暗なはずの岩屋の中からさん然と光が漏れこぼれ、高貴な香りさえ漂ってきます。怪しみながら中を覗き込むと、なんとそこには阿弥陀如来と不動明王が立っておられ、あろうことか、自分の放った矢が阿弥陀様の胸に突き刺さっているではありませんか。そこで初めて、かの白鷹と熊は仏様の化身であったことを有頼は悟り、刀を引き抜き、己の腹をかっさばかんとしたのです。すると仏様は、「我々はずっと汝を待っておったのじゃ、立山を開いて衆生済度の霊場とし、人々を導いてほしい」と告げられました。感涙にむせぶ有頼は髷を落として出家を誓い、麓の芦峅寺に居を構えて、名を慈興と改め立山へ人々が登れるようにしたということです。
立山に地獄あり
立山の地獄
立山には地獄谷と呼ばれる場所があります。地の底から音を立てて蒸気が噴き出し、硫黄の匂いが立ち込める。草木もまばらな荒涼とした光景の広がる火山地形に人々は『地獄』を感じ取りました。死後の魂は山の中へ帰って行くとする霊魂観を持っていた当時の人々にとって、それは大きな衝撃でした。話に聞く死後の世界が、立山では本当に山の中にあったのですから。
その衝撃は人々の口から口へと伝えられ、霊山立山の名は、遠く離れた都人にまでとどろくことになり、仏教で説かれることになります。仏教で説かれる様々な地獄が立山に実在すると、信じられていきました。
阿弥陀如来のご来迎
立山の浄土
仏教では地獄に落ちても、そこから救済してくれる仏様や手立てが説かれており、立山にも地獄とともに『立山浄土』があるとされ、山々の頂に阿弥陀如来の来迎が描かれました。左が阿弥陀三尊となる観音菩薩・勢至菩薩、右が阿弥陀如来と二十五菩薩です。立山には極楽浄土が実在するといわれて、信仰を集めるようになります。
穢れを落とし、生まれ変わる
禅定登拝道
立山に登拝する人々は、芦峅寺の宿坊で一泊し、翌朝暗いうちに出発します。現在の立山駅近くにかかっていた藤橋を渡って山に入っていきます。
明治5年(1872)に明治政府が廃止の通達を出すまで、立山は神聖な場所とされ、女性が登ることを禁止する山(=女人禁制)でした。そんな立山に登ろうとした若狭国小浜(現在の福井県)の止宇呂という尼僧と、お供の若い女性と女の子(童女)が立山に入山すると、若い女性が山の神の怒りによって杉に変えられてしまいました。この杉は「美女杉」と呼ばれています。若い女性が杉に変えられ、怖くなって進まないでいる童女を止宇呂が叱ると、童女が思わずオシッコをもらしたところに大きな穴があき(「しかりばり」という)、さらに童女も杉へと変えられてしまいます。この杉は、肩まで切りそろえた子供の髪型(禿)に似ていることから、「禿杉(かむろすぎ)」と呼ばれています。
一ノ谷と二ノ谷にある鎖は、京都の名工・三条小鍛冶宗近(平安時代、日本刀などをつくった有名な職人)が作って奉納したものとされています。
この周辺には魔物(悪い鬼)が凄み、禅定人を困らせていたので、空海が獅子が鼻の岩端に座り、七日七夜調伏の護摩を焚いて退治したといいます。また、獅子が鼻の窟で、空海が二十日間護摩を焚いて断食苦行の籠り修行をしたという話もあります。「扇掛の松」は、空海が護摩を焚く時に護摩木を持っていなかったため、登拝者(禅定人)の扇子をもらって焚いたといい、その後登拝者(禅定人)は持参した扇子をこの松に奉納したといわれています。
女人救済の儀式
布橋灌頂会
芦峅寺で行われていたこの法会は、女人を救済するための儀式でした。秋彼岸の中日、死装束の白衣を身に着けた女人たちは、閻魔堂に入り、座につきます。堂内には閻魔大王の坐像が鎮座し、その前で女人たちは懺悔の儀式に臨みます。儀式が終わると外へ出て、目隠しをし、地面に敷かれた白い布の上を歩きます。そして明念坂という坂を引導衆と呼ばれるお坊さんの一団に導かれて、布橋まで下りていきます。この儀式の日に、橋板に白布が敷き渡されるので、布橋と呼ばれるようになりました。橋の向こう側の来迎衆という僧侶の一団が、橋の中央まで歩み出て、引導衆から女人たちを引き継ぎ、導いていきます。橋の下に龍が描かれていますが、罪深い者は、この橋が糸よりも細く見え、橋から落ちて大蛇(龍)に呑まれて死んでしまうとされており、不安な気持ちで渡ったと伝えられています。この布橋大灌頂は、橋のこちら側を「この世」、渡った先を「あの世」と見立て、布橋を渡ることで死を疑似体験し、そこから蘇って強靭な生きる力を得る「生まれ変わり」の儀式です。すなわち修験道における「擬死再生」の思想を基盤としていました。女人禁制のため山中修行に取り組めない女性たちを救済する儀式が、芦峅寺で開催されていたのです。橋の向こうの彼岸にはうば堂が建っており、橋を渡った女人たちはその中に入り、目隠しを外します。全ての扉が閉められて真っ暗となっている堂内には、うば尊が66体祀られており、その前で宗派を問わず、それぞれが信仰している唱えごとを一心不乱に唱え続けました。
やがて意識がもうろうとしはじめた頃、うば堂の奥の扉が開け放たれると、遠くに雄大にそびえたつ立山が望まれ、それを目にした女人たちが、「権現様が現れた」と感激の涙を流し、生きる力を授かって各々の郷へ帰っていき、残りの人生を心豊かに力強く過ごしたと、立山には伝わっています。